サアカスの馬たち
~グレードレース メモランダム~
フェイトフルウォー
【2011年 セントライト記念】黄金の遺伝子を受け継いだ気ままな少年
2歳の10月、東京(芝1800m)でデビューすると、7番人気(単勝26・1倍)の低評価を跳ね返し、2馬身半の決定的な差を広げたフェイトフルウォー。ゴールの瞬間、新馬戦らしからぬ大歓声に包まれた。
なぜならば、同馬は入場時に田中勝春騎手を振り落として放馬。向正面まで駆けていったかと思うと、またスタンド前まで戻ってきて、1コーナーとの間を気ままに行き来していた。走った距離は相当。だが、極度にテンションが上がっている様子はなく、馬は悠然とした雰囲気。競走に影響なしと判断され、無事にゲートインしていた。
長時間に渡り、行く手に待ち構える係員を巧みに交わし続けたなか、捕まえたのは堀宣行調教師。同レースで1番人気に推され、2着に終わったサトノペガサスに馬場まで付き添っていたのだ。ライバルの勝利を手助けしたかたちとなり、レース後は多くの関係者から冷やかされることとなる。
そんな逸話は別にして、生まれ持った素質も非凡だった。ドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップをはじめ、数多くのスターホースを送り出したステイゴールドの産駒。3勝をマークした母のフェートデュヴァンは、前述の3頭と同様、メジロマックイーンの肌である。
操縦性に難しさがあるのも父の特徴。東京スポーツ杯2歳S(3着)やホープフルS(3着)は流れに乗れずに足踏みしたが、リングハミに替えた京成杯では好位のポジションを取ることができた。抜け出してソラを使ったためにハナ差の辛勝ではあったが、伊藤伸一調教師に初の重賞勝ちをプレゼントする。
「長い写真判定。ひやひやしましたね。使うたびにずるさが出ていますし、折り合いなど、課題が多い現状です。それでも、力を信じていましたよ。この感激を将来につなげていきたい」
と、トレーナーは安堵の笑みを浮かべた。
賞金を加算できたことで、皐月賞へ直行。しかし、コースロスが響き、12着に敗退する。ダービーもなし崩しに足を使って13着。当時は大型の割りに飼い食いが細く、フィジカル面も完成途上だった。
山元トレセンでリフレッシュが図られ、ひと回りパワーアップ。気持ちも新たにセントライト記念へ向かい、みごとに復活の勝利を収めた。
「気分を損ねないで運んだ柴田善臣騎手の好プレーが光ります。ゲートをスムーズに出て、絶好の5、6番手をキープ。ハイペースのなか、道中は前に壁をつくって末脚を温存できました。ジョッキーによれば、勝負どころで悪さをしかけたとのことですが、他馬とは手応えが違い、直線で外へ持ち出したら一気に突き放してしまった。初めて安心して見ていられましたね」
いよいよ本格化したかと思われたが、菊花賞は7着に終わった。「入れ替わり、立ち替わりが激しい展開に馬が怒ってしまって。我慢が利かなかった」(柴田善騎手)のが敗因。翌春は日経賞(8着)をステップに天皇賞・春に向かったものの、レース中に左前を気にするそぶりを見せ、13着に沈む。当初は腱鞘炎との診断だった。
この父らしい個性だった一方、残念ながら手脚の丈夫さは受け継いでいなかった。ゆっくり回復を待ったうえ、翌春にトレセンへ帰厩したフェイトフルウォーだったが、エコー検査で屈腱に損傷が確認され、引退が決定。乗馬となり、静かに余生を送っている。
キャリアはわずか10戦。少年のままでターフを去ったのが惜しまれるが、手にした2つのゴールドメダルは、いつまでも純真な輝きを放ち続ける。