サアカスの馬たち
~グレードレース メモランダム~
フェデラリスト
【2012年 中山記念】百戦錬磨の鉄人と結ばれた栄光へのパートナーシップ
ジョッキーとして豊富な経験を積み、ジャンプ界で歴代4位となる207の勝ち鞍が燦然と輝く田中剛調教師。計13勝を挙げた重賞のひとつには、ゴールデンアイで飾った95年東京新聞杯も含まれる。平地にもこだわって364勝をマークした。
「ハングリー精神では負けたくなかった。他の騎手が断った癖馬を喜んで引き受けましたよ。並大抵の腕力では太刀打ちできないタイプが多く、こちらも必死にトレーニングしました。あらゆる箇所を骨折し、体に15回もメスを入れましたね。それでも頚椎の変形が判明し、『次に落ちたら命がない』とドクターストップがかかるまで、ジョッキー以外の自分は想像できなかった」
と、鉄人は振り返る。ムチを置いたのは48歳になってから。だが、次のステップに必要な知識は十分に蓄えていた。ロスのないコース取りで調教師試験をパス。マジェスティバイオ(中山大障害、中山グランドジャンプ)、ロゴタイプ(朝日杯FS、皐月賞、安田記念)、シャンパンカラー(NHKマイルC)を輩出するなど、トレーナーとしても目覚ましい成果を上げているが、記念すべき初の平地重賞を勝ち取った逸材がフェデラリストだった。
母はダンスパートナー(その父サンデーサイレンス)。オークスやエリザベス女王杯を制した名牝中の名牝である。産駒にダンスオールナイト(5勝、中山牝馬Sを3着)、ロンギングダンサー(7勝、新潟記念3着)ら。エアダブリン(重賞3勝、ダービー2着)、ダンスインザダーク(菊花賞など重賞3勝、ダービー2着)、ダンスインザムード(桜花賞、ヴィクトリアマイルなど重賞4勝、G1の2着が4回)が叔父母に名を連ねる良家の御曹司である。
配されたのはベルモントSの覇者であり、種牡馬としても成功したエンパイアメーカー。同馬は持ち込みだが、後に日本で繋養され、ダート界に多数の強豪を送っている。父母の名「エンパイア」と「パートナー」より連想され、フェデラリスト(連邦主義者)と名付けられた。社台サラブレッドクラブでの募集総額は8000万円だった。
3歳の3月、栗東・松田国英厩舎より、阪神の芝1800mでデビュー。出遅れが響き、4着に終わったが、大外を回してメンバー中で最速となる34秒4の上がりをマークしていた。ただし、右前脚に剥離骨折を発症。1年近くのブランクを経る。地方の船橋で再起する道程も、飛節の不安に悩まされるなど、決して平坦ではなかった。2月に初勝利した直後には、東日本大震災の影響で開催が中止となり、園田へ移籍することに。能力の違いで連勝し、晴れてJRA再登録の要件をクリアする。田中調教師とともに歩み出したのは、4歳5月のこと。厩舎が開業したばかりのタイミングで、未完の大器がやってきた。
「手元に来た当初より、いずれは厩舎の看板馬になってくれると信じていましたよ。血統的にもスケールが大きい。それにしても、あんなに強くなるなんて。巡り会いに感謝するしかありません」
6月6日の遅生まれであり、当初は精神面が子供っぽかったが、トレーナーは騎手時代も馬術のテクニックを学び、それを競馬に生かしてきた過去がある。障害界の名手だっただけに、厩舎の敷地内にも設置した横木を通過させ、人とスムーズにコンタクトが取れるような訓練を施したり、並みのテクニックでは乗りこなせないダブルブライドル(上級の馬術競技用の大勒)を自ら用いて、全身を無駄なく使えるように導いたり。独自の手法を駆使している。丁寧に磨かれた成果がいきなり表れ、6月の中山(芝1800m)を快勝する。
包まれて追い出しが遅れた支笏湖特別(4着)、スタートで躓き、流れに乗れなかったマレーシアC(4着)と足踏みをしたとはいえ、着々と体力アップが図られる。想像を超えた上昇カーブを描き、鎌ヶ谷特別、東京ウェルカムプレミアムと楽々と抜け出した。
いよいよ重賞の晴れ舞台へ。中山金杯ではスローな流れの後方を追走したが、折り合いもびたりと付き、3コーナーから外目をじっくり進出する。直線の追い比べでも堂々と競り勝ち、栄光のゴールへと飛び込んだ。
名監督がいて、名選手は育つ。両者の個性がぴったりマッチし、信頼関係は揺るぎないものとなっていた。普段は冷静沈着ながら、続く中山記念でもまるで指揮官のファイトが乗り移ったかのようなパフォーマンスを披露する。シルポートの逃走がはまった展開を打ち破り、ゴール前できっちり捕らえた。
「あのころになると、全力を尽くすべきところと、リラックスしていい時間帯との区別ができるようになったんです。操縦の難しさも和らぎ、乗り手の指示にきちんと反応。馬が秘めた底知れない可能性を再認識しましたし、こちらもいろんなことを教えてもらいましたね」
大阪杯(2着)はショウナンマイティの強襲に屈したとはいえ、立ち回りは完璧。さらなる前進は必至かと思われた。だが、宝塚記念(10着)以降は懸命な立て直しが実らず、本来の状態を取り戻せなかった。毎日王冠(16着)、天皇賞・秋(15着)と惨敗。長期休養を挟み、メイS(17着)、朝日チャレンジC(15着)と戦ったところで、種牡馬への転身が決まった。韓国に渡り、現地で多数の活躍馬を送り出した後、2021年、天国へと旅立った。
光と影にくっきり色分けされた競走生活ではあっても、いまでも精神的な主柱となってチームを牽引するフェデラリスト。燃え盛る闘志は後輩へと受け継がれ、新たな感動を創出していく。