サアカスの馬たち
~グレードレース メモランダム~
メイショウバトラー
【2009年 マリーンカップ】勇猛果敢な女性戦士が歴史に名を刻んだ50戦目のバトル
高橋成忠調教師(2011年に引退)にとって、メイショウバトラーはホースマン人生のすべてを凝縮させたような傑作だった。100戦以上を戦ったスペインランドやサンコメーテスをはじめ、息長く走らせることで定評があった厩舎とはいえ、牝ながら11歳まで現役を続行。トレーナーが定年を迎えると同時に繁殖入りした。
「あの馬には思い出が詰まっていてね。父のメイショウホムラ(フェブラリーハンデキャップなど10勝)だけでなく、母のメイショウハゴロモ(その父ダイナガリバー、3勝)も、祖母メイショウエンゼル(2勝)も、自分が管理した馬。もう40年以上も昔のことだけど、4代母のハイポンドは、騎手時代に乗っていた忘れられない一頭なんだよ。それぞれの血のいいところが、みんな出ていた。いまでも愛娘、いや、かわいい孫のよう」
と、馬づくりのベテランは話す。
デビューは3歳6月と遅れたものの、2戦目の阪神、ダート1800mで未勝利勝ち。ターフに関しても適性は高く、続く小倉の芝1700mも連勝した。野分特別を逃げ切り、秋華賞(7着)、エリザベス女王杯(12着)に参戦。4歳になって一段とレース運びに安定味を増し、関門橋S、さらに小倉大賞典と勝ち星を重ねた。
その後も重賞戦線で堅実に健闘。ところが、阪神牝馬S(2着)を走り終えたところで、両前脚に屈腱炎を発症してしまう。
「特に左前の症状はかなり重くて。復帰できる保証はないと言われても、まだ伸びそうな手応えを感じていたし、治る可能性に賭けてみたかった。放牧先の武田牧場では、ある程度は運動させながら、回復を待ったよ。完全に身体を緩めるより、自然治癒力が高まるからね。ただし、1年以上経っても、炎症は残ったまま。いったんはあきらめたかけたなぁ。それでも、ショックウェーブ療法を施しながら、ダメもとで乗り込みを進めてみた。不思議なことに、それから急にすっきりしたんだ。最新鋭の治療は効果が大きかったし、馬も我慢強かった」
腱の炎症や筋肉痛などに有効な治療手段として、最近では一般的となったショックウェーブ療法。衝撃波(超音速の圧力波)を機械で人工的に造り出し、患部に照射するものであり、人の医療では腎結石の破壊のために行われていた療法だが、これが馬にも応用され始めた矢先だった。同馬のみごとな復活が、注目されるきっかけとなる。
脚元への負担を考慮し、以降はダートに専念。6歳5月、欅S(12着)より再スタートする。陣営も良化は先と見ていたのだが、状態は確実にアップ。本来の気合いが戻ってきた。そして、プロキオンSに臨むと、後続を楽々と突き放し、感動的な復活劇を飾った。続く佐賀のサマーチャンピオンも連勝する。シリウスSはプラス24キロの大幅な体重増。ただし、たくましく筋肉が張り出し、いよいよ完成の域に入った証だった。あっさり突き抜け、後続に1馬身半の決定的な差を付けた。
「緩さが残り、万全という状態に戻っていないなかでも、56キロのハンデを課せられても断然の伸び。大したものだよ。いつ再発するかわからない不治の病。しばらくは毎日、毎日、気が抜けなかった。でも、付き合いが深まるにつれ、調教後に無事を確認するのが、むしろ楽しみに変わったかな。走るたびに、どんどん夢を広げてくれるんだもの。本当にありがたかった」
JBCマイルも2着に健闘。厳しい展開に泣いたJCダート(12着)以降、しばらく低迷したものの、かきつばた記念、さきたま杯、スパーキングレディーC、クラスターCと破竹の4連勝を成し遂げる。
8歳にしてマリーンCを勝利。単勝1・5倍の支持に違わぬ強さだった。翌年も同レースを連覇する。年齢的な衰えを懸念され、前年より評価(単勝9・7倍)を落としていたが、早め先頭から堂々と押し切り、2着に2馬身半を広げる圧巻のパフォーマンス。ついに手にしたタイトルは10まで伸びた。これが通算50戦目。9歳牝馬の交流重賞勝ちは史上初の快挙である。
全61戦(14勝)を懸命に戦った男勝りのバトラー(戦士、闘士)。重賞での2着が10回、3着も7走ある。繁殖としてはメイショウタラチネ(3勝)以外、JRAでの勝ち馬を送り出せなかったが、夢は孫世代へと受け継がれる。タフな個性派の登場を待ちたい。