サアカスの馬たち
~グレードレース メモランダム~
ナムラクレセント
【2011年 阪神大賞典】かなたまで光を放つ長距離界の若月
02年の京成杯の覇者(ローマンエンパイアとの同着)となったヤマニンセラフィム。サンデーサイレンスの後継ながら、種牡馬入りしても注目度は低く、ファーストクロップは11頭しかいなかった。JRAで初勝利を挙げたのがナムラクレセントであり、さらに重賞のタイトルも奪取して、父の名を高めることとなる。
「母サクラコミナ(その父サクラショウリ、2勝)の仔ではナムラブーム(2勝)なども手がけ、愛着が深い血統。でも、あそこまで強くなるなんて想像できなかったね。特にクレセントは成長の速度が遅かった。ディアレストクラブでの育成時は、首が細くて華奢だったし、動きも目立たなかったよ。ようやく幅が出てきたのは、2歳の11月に手元へ来てからなんだ」
と、管理した福島信晴調教師は若駒当時を振り返る。
新馬(阪神の芝1400m)は5着に終わったが、続く小倉の芝1800mで初勝利。きさらぎ賞(8着)を走り終えて5か月間の休養を挟むと、ぐっとパワーアップする。復帰2戦目の小倉(芝2000m)を勝ち上がり、玄海特別も連勝した。
「とても届かないと思われる位置取りから一気の差し切り。豊富なスタミナを見込んでいても、道中で力みがちだから、小回りの忙しい展開のほうが最後まで集中できる。肉体の強化以上に、精神的な若さが課題。怒ったら、何をするかわからない。かつては坂路を登るのにもひと苦労。30分くらいかかってしまうこともあったんだ。装鞍や下見では一気にテンションが上がり、いつもひやひやしていたよ」
神戸新聞杯は6着だったが、菊花賞(3着)ではいったん先頭のシーンもあり、負けてなお強しの内容。ステイヤーとしての高い資質を示す。
「夏場に使い込んで上積みが薄かったのに。常識では過酷に思える条件でも、期待以上にがんばり通すところがあり、底知れない可能性を感じ始めたね」
4歳春には極悪馬場となった阪神大賞典を3着。後方から長く脚を使った。だが、相変わらず折り合い面には課題が残り、準オープンの2戦を取りこぼす。
リフレッシュ放牧後の阿賀野川特別で5馬身差の逃げ切りを決め、続く西宮Sも順当に差し切る。毎日王冠(4着)、アンドロメダS(1着)、鳴尾記念(3着)と健闘した時点では、重賞に手が届くのも時間の問題かと思えた。
ところが、肉体面の充実に反し、操縦性は一段と難しくなっていく。天皇賞・春の4着、カシオペアSでの2着があったものの、5歳シーズンは未勝利。年明けの日経新春杯も4着だったが、久々に好位を渋太く粘り、心と体が釣り合いつつある兆しがうかがえた。
すっと2番手のポジションを奪えた阪神大賞典。中盤でペースダウンしても、気分を損なわずに淡々と追走する。ラスト6ハロンあたりから各馬も動き、4コーナーでは隊列が縮まってきたが、楽な手応えで先頭へ。早々と勝負を決め、後続に3馬身半の差を広げてゴールに飛び込んだ。
騎乗した和田竜二騎手は、菊花賞でもコンビを組んだベストパートナーである。
「だいぶ乗りやすくなり、やっと持ち味を発揮できた。やはり能力は半端じゃない。こんなレースができれば、G1でもやれますよ」
と、満面の笑みを浮かべた。
前半は次々に先頭が入れ替わり、スリリングな展開となった天皇賞・春(3着)。出遅れが痛恨だったとはいえ、向正面でハナを奪い、後続を引き離す。残り100mで力尽きたが、非凡な資質を再認識させる激走だった。
翌春の阪神大賞典でも3着に食い込むなど、以降も果敢に戦った同馬だが、7歳時の天皇賞・春(9着)で左前脚に屈腱炎を発症してしまう。
JRAでの復帰を断念し、地方に移籍。屈強なファイターは9歳まで現役を続け、さらに19戦(2勝)を消化する。功労馬として静かに余生を過ごしていたが、2022年、17歳にて天国へ旅立った。それでも、屈強なボディーや荒々しいパフォーマンスは、いまだ目に焼き付いたままである。