サアカスの馬たち 
~グレードレース メモランダム~

ナナヨーヒマワリ

【2008年 マーチステークス】地味な個性が咲かせた早春の大輪

 08年11月に落馬事故に見舞われ、翌年には静かにムチを置くこととなった小原義之騎手(現在は石橋守厩舎の調教助手)。ジョッキー時代の思い出を訊くと、明るい笑顔でこう答えてくれる。

「ずっと地味に、淡々と過ごしたなかでも、うれしい出来事はいろいろありましたからね。自分なりに充実していました。ホクセイアンバー(94年小倉記念)、タマモイナズマ(99年ダイヤモンドS)、タマモヒビキ(02年小倉大賞典)、そして、あの馬。重賞で本命に乗ったことなんてないのに、よう4つも勝てたものです」

 集大成ともいえる栄光が、08年マーチS。コンビを組んだのは、7歳馬のナナヨーヒマワリだった。

 父は安田記念やマイルCSに勝ったエアジハード。代表産駒のショウワモダン(安田記念)、アグネスラズベリ(函館スプリントS)と同様、晩生タイプだった。母ナナヨーウイング(その父セレスティアルストーム)はオークスの2着馬。その全姉に4歳牝馬特別を2着したナナヨーストームがいる。ただし、繁殖成績は振るわず、同馬以外にJRAで勝った仔はいない。

「デビュー当初は細身で、470キロくらいの馬体でした。とてもダート向きには思えず、8戦続けて芝を使ったんです。2走目のダート(1400m)でようやく初勝利。坂路調教では負担がかかりすぎたのでしょう。トモが弱さが課題でしたが、コース中心のメニューに切り替えたら、じわじわ力を付けてきました」

 3歳秋、京都のダート1400mで2勝目をマーク。だが、コンスタントに走り続けても勝利は遠く、通算33戦目にして5歳8月の札幌、ダート1700mを勝ち上がる。6歳4月になり、桃山特別を制したころには、体重が510キロまで増えていた。

「以前とは馬のかたちがまったく違う。よう強くなったものやと感心しましたよ。しかも、まだまだ奥があった。馬の個性は本当に様々。先入観にとらわれたらいけないって、教えられましたね」

 準オープンに昇級しても、6戦続けて掲示板を確保。46戦目となった北山Sに優勝する。だが、ここまで1番人気に推されたのはわずかに1回。初挑戦となった重賞のマーチSで、7番人気の低評価に甘んじたのも無理からぬところである。

「本来は後ろから行くのは好きじゃない。他の馬ならば気分も落ち着かないのですが、最後方があの馬の定位置ですから。いつもどおりの競馬をしたまででした。いい流れになり、着くらいあるぞと思って追っていたら、気が付けば先頭。さすがにオープンでは厳しいだろうと見ていましたし、連勝したのも初めて。観ているファンも驚いたでしょうが、こちらのほうがびっくりしましたよ」

 展開がはまったとはいえ、次位をコンマ9秒も凌ぐ上がり(37秒0)を駆使。鮮やかな逆転劇だった。

 小原さんにとっては、7年ぶりとなる重賞のゴール。直後は大仕事を成し遂げた実感もなかったのだが、時間が経つうちに、喜びは大きくふくらんできたという。

「中山からの帰りは、電車に乗って東京駅へと行くつもりでしたが、きょうくらいはいいかと、タクシーを奮発しました」

 太い眉が印象的で、豪快なイメージを受ける小原さん。あの晩は美酒に酔いしれたのだろうと想像していたが、
「親父(同馬を管理した小原伊佐美元調教師。マーチS当日は中京競馬場に臨場し、モニターの前で立ち尽くしていたとの目撃情報あり)もそうですが、酒は弱いんです。まっすぐ栗東へ戻りました。ちょうど家内や子供は泊まりがけで外出中。夕食はコンビニ弁当で済ませました」
 とのこと。

 以降のナナヨーヒマワリはしばらく本調子を欠き、11戦を消化しても上位進出はかなわなかった。だが、8歳時に障害へ転向すると、堅実に上昇。平地時代と違い、多大な支持を集めた。9歳1月、ジャンプレースで初勝利。オープンでは2戦しか消化できなかったのが残念だったとはいえ、全65戦を懸命に駆け抜けた。

「まずはあきらめないこと。その大切さを教えてくれた」
 と、小原さんは健闘をねぎらう。長い競走生活に反し、つかの間しか輝きを放てなかったけれど、咲かせた大輪は感動的な美しさに満ちていた。