サアカスの馬たち
~グレードレース メモランダム~
ロックドゥカンブ
【2007年 ラジオNIKKEI賞】熟成手前でも味わい深い異色の逸品
世界は広く、どこに名馬が潜んでいるかわからない。「カンブ(地名)の岩」を意味するボルドーのワイン名が付けられたロックドゥカンブだが、産地はフランスではなくニュージーランド。同馬を見出したのは、ノーザンファーム代表の吉田勝己氏(オーナーは夫人の和美氏)である。06年4月、オーストラリア・シドニーで開催されたウイリアム・イングリス・アンド・サン社のイースター・イヤーリングセールにて購入された。別の良血馬に目を付けていた吉田氏だったが、220万豪ドル(約2億2千万円)まで競り上がり、あまりの高値に断念。その直後、同馬がセリ会場に入ってきた。
エレクトロキューショニスト(ドバイワールドCなどG1を3勝)をはじめ、多くのトップクラスを輩出し、現地へもシャトルされて大成功を収めたレッドランサムの産駒。母フェアリーライツ(その父フェアリーキング)は英で未勝利に終わったが、愛1000ギニーに勝った曾祖母ゲイリーに連なる母系である。血筋を精査したわけではなく、下見もしていなかったが、はっとさせられるものがあったという。大きな勝負に敗れた悔しさにも後押しされ、思わず手を上げたところ、あっさり落札。価格は13万豪ドルだった。
セリはナイターで開催され、細部にまで目が届きにくい。翌朝、改めて馬体をチェックすると、負担がかかりやすい肢勢をしていた。ノーザンファームの関係者は、無事に競走馬になれるのだろうかと心配したらしい。
南半球では季節が逆となり、こちらの秋が出産シーズン。同馬も9月29日生まれである。輸入後は他馬より半年遅れて成長曲線を描くこととなる。ノーザンファーム空港でじっくり育成。預託先は堀宣行厩舎に決まった。早い時期に無理をさせず、丁寧に素質を開花させることで定評があるステーブル。ひとつ年長のキンシャサノキセキ(高松宮記念2回)を走らせた経験もあり、南半球産との相性も抜群といえた。3歳(実質は2歳半)1月の入厩後もスムーズに調整が進む。
人間の想像をはるかに越えて、出世のスピードは急。3月の阪神、芝1800mを快勝する。いったん後退しながら差し切ったマカオJCTの勝ち方は、只者でないと思わせた。調教の動きは地味でも、実戦で良さが生きるタイプ。なんといっても性格がいい。意のままに動いてくれる賢い馬だった。
3戦目に選ばれたのがラジオNIKKEI賞。正攻法で臨み、前半は離れた3番手でスパートのタイミングをうかがう。コーナーに入って進出を開始しても手応えには余裕があった。直線手前で先頭へ。懸命に追いすがる後続を突き放し、1馬身半差を付けてゴールする。2着には後にジャパンCに優勝するスクリーンヒーローが続いた。ニュージーランド生まれの日本調教馬がJRAの平地重賞に勝ったのは、実に50年ぶりのことだった。
「いままでのレースを見たり、話を聞いたりして、エンジンのかかりが遅いと判断のうえ、早めに動いていましたが、終始、楽な競馬。直線で後続が迫ってきても、これなら大丈夫、交わされることはないと確信しましたよ。これから成長するタイミング。底知れないスケールを感じています」
と、初めて手綱を託された柴山雄一騎手は、満足そうに笑みを浮かべた。
夏場のリフレッシュを経て、セントライト記念へ。プラス12キロの体重でも太め感はなく、この間にもぐっと成長していた。入れ替わりが激しいタイトな展開となったが、好位でじっと脚をためる。満を持して外へ持ち出すと、あっという間に先頭に立つ。危なげなく後続を完封し、無傷の4連勝を飾った。柴山ジョッキーは、こう声を弾ませる。
「仕上りがいいので、自信を持って乗ってほしいと伝えられていました。次々に来られましたが、4コーナーでも余力はたっぷり。前が開けば、瞬時に出られそうな感触でしたね。切れる脚を使うゴールデンダリア(コンマ2秒差の2着)を意識しながらゴーサイン。思い描いた通りの結果です。折り合いが付きますから、距離が延びる菊花賞でもやれますよ」
1番人気を背負って臨んだ初のG1。ただし、後方の位置取りとなり、インに包まれてスパートが遅れる。無念の3着だった。それでも、メンバー中で最速の上がり(3ハロン35秒4)を駆使し、確かな実力を示している。
有馬記念は4着に終わったが、騎乗したマイケル・キネーン騎手も、「前向きな性格で、とても乗りやすい。いずれは日本のトップホースになるだろう。来年の〝キングジョージ〟での再会を楽しみにしている」と話していた。
5か月間の休養を挟み、目黒記念を3着。宝塚記念に駒を進める。結果次第ではキングジョージ6世&クイーンエリザベスSへの出走も視野に入っていた矢先、悲劇が待ち受けていた。予想外の失速(12着)に目を疑っただけでなく、入線後は下馬。左後肢の繋靭帯を断裂する重傷を負っていた。なんとか最悪の事態は免れたが、競走能力喪失の診断。走りに深みを増す前の早すぎるリタイアだった。長期に及ぶ過酷な療養生活をじっと耐えたロックドゥカンブは、生まれ故郷のニュージーランド(オークススタッド)に移動。種牡馬となった。ニュージーランドダービーを制覇したヴィンドゥダンスらを送り出している。
天皇賞・春を同厩のジャガーメイルが制したとき、ロックドゥカンブのことが頭に浮かんだ。2頭は同い年であり、頻繁に併せ馬を行っていた調教パートナー。デビューが大幅に遅れ、当初は頼りなかったジャガーメイルも、真面目に走る大器の胸を借りて強くなっていった。かなえられずに終わった夢は、現役の後輩たちにもしっかり受け継がれている。