サアカスの馬たち 
~グレードレース メモランダム~

スノーフェアリー

【2011年 エリザベス女王杯】紅葉に染まって舞い降りた雪の妖精

 2010年のエリザベス女王杯に参戦したスノーフェアリーは、本物の女王だった。英、愛のオークスを連勝したビッグネーム。だが、この世代の欧州3歳牝馬はレベルに疑問が持たれていたこともあり、単勝8・5倍の4番人気に甘んじていた。英オークスの勝ちタイムは2400mを2分35秒7。日本の馬場で走るとなれば、異質の競技に挑むようなものである。

 ファンが半信半疑の視線を送るなか、道中は7番手でスムーズに折り合う。直線はインへ。エンジンがかかってからは驚異の末脚を爆発させた。ラスト1ハロンだけで後続に4馬身の差を付けてしまった。

 ライアン・ムーア騎手は非常にクレバーであり、本番前のレースに騎乗した際、みな荒れたインを嫌って外へと持ち出すのを見て、あの進路しかないと決めていたという。馬を動かす巧みなテクニックだけでなく、冷静な判断力に導かれた勝利といえた。

 父インティカーブはレッドランサムの後継であり、ロベルト、ヘイルトゥリーズンへと遡るサイアーライン。思えば、日本にも馴染みのスピード色が濃い血統である。母ウッドランドドリーム(その父チャーンウッドフォリスト、愛1勝)の半兄に芝2000mの独G3・フュルシュテンベルクレネンを制したビッグバッドボブがいる。ラストで瞬発力を爆発させるスタイルは、硬いコースでより威力を発揮。適性を重視したレース選択だった。

 1歳時のセールに上場された際は、1800ユーロ(当時のレートで約23万円)でも主取りとなったスノーフェアリー。2歳7月に短距離で初勝利したものの、しばらくは足踏みを続ける。ハイトオブファッションS(芝2000m)でようやく2勝目。ところが、ここに才能を花開かせる白馬の王子が登場する。着々とトップの地位を固めつつあったムーア騎手だった。低評価を覆し、クラシックレースで重賞初制覇を成し遂げたのだ。アイリッシュオークスも8馬身差の圧勝。雪の妖精は、きらびやかなプリンセスへと変身した。

 ヨークシャーオークス(2着)、セントレジャー(4着)と勝ち切れなかった要因も、乗り替わった影響が大きかった。道悪を嫌ってオペラ賞を回避。チャンピオンSやブリーダーズCの諸レースにも目をくれず、エリザベス女王杯を目標に力を蓄える。3着以内に入れば、賞金とは別に褒賞金(1着は9000万円)が支給される。この規定が陣営を動かしたのである。

 ウイジャボードをジャパンC(05年に5着、翌年は3着)に送り込んだ経験があるエドワード・ダンロップ調教師は、前回より早めに来日させ、入念にコンディションを整えた。課せられる斤量(54キロ)がライアンの体重ではぎりぎりのラインではあったが、もちろん、抜群の相性を誇る名手の騎乗は最優先事項だった。

 この滞在がきっかけとなり、ムーア騎手は以降も短期免許を取得。マイケル・スタウト厩舎の主戦を務めた関係で、やはりイギリスの名門で研修した経験があり、様々な場面で交流を深めてきた堀宣行調教師のもとで熱心に調教に参加した。日本のホースマンの信頼は揺るぎないものとなり、ジャパンC(ジェンティルドンナ)、朝日杯FS(アジアエクスプレス、サリオス)、マイルCS(モーリス)、天皇賞・秋(モーリス)、チャンピオンズC(ゴールドドリーム)など、次々にビッグタイトルを手中に収めていくこととなる。

 一方のスノーフェアリーは、香港CでアジアのG1を連覇。4歳になっても愛チャンピオンS(2着)、凱旋門賞(3着)、英チャンピオンS(3着)など、牡の強豪と堂々と渡り合った。そして、翌年も再来日し、エリザベス女王杯に向かう。

 18番枠を引き、道中は後方の苦しいポジション。それでも、3コーナーでは内に潜り込んで進出を開始した。ラストはレースの上がりを3秒3も凌ぐ決め手(3ハロン33秒8)を繰り出し、一気に馬群を突き抜ける。着差はクビながら、前年以上の鮮烈なパフォーマンスだった。

「予想よりペースは速かったけど、馬は落ち着いてゴーサインを待っていた。期待通り、即座に反応してくれたよ。ここまでのローテンションはハード。実際に跨るまでは不安もあったが、まだタンクに十分な燃料が残っている感じ。ほんと強い。すごいポテンシャルの持ち主だね」
 と、ジョッキーは涼しい顔でレースを振り振り返った。

 この後に左前脚に屈腱炎を発症しながら懸命の治療で乗り越える。翌年のジャンロマネ賞(1位に入線したものの、治療のために用いられた禁止薬物が検出されて失格)を経て、愛チャンピオンSをレコードタイムで優勝した。

 錦秋の淀をこよなく愛した雪の女王。わずか2回のステージではあったが、その魔力に最も魅せられたのは日本のファンである。